偶然東京にいたあの日地震に巻き込まれたという話
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美術館の写真

地震発生当時いた六本木の国立新美術館。撮影も当時のもの。

吊り標識が揺れた時は「おれもう死ぬ」と本当に思った

あの日は長期休暇中で、青春18切符を使って大阪から東京に来ていた。前日は向こう在住の友人に会っていたが、当日は単独行動していた。実は、18切符でさらに仙台を目指そうと思っていたのだが、ぐだぐだと東京で過ごしていた。昼過ぎに六本木にある国立新美術館にいる時に、明日は仙台を目指そうと思いながら作品を鑑賞していた。特別展を見終わって最後の部屋にいる時に大きく揺れた。吊り看板が大きく揺れていた。地面が大きく揺れている時に、瞬時に色んな事が脳裏に浮かんだ。死ぬかもしれないという事が脳裏をよぎると、

「自分が東日本にいることを両親に伝えていなかった。」

「この美術館が倒壊して、がれきの中から誰かがおれの免許証を見つけて、誰かが両親に連絡するのかな。」

「東京みたいな余所の土地で覚悟なく死にたくない。」

地面が揺れている時にこのような思いが一気に脳裏に浮かんでいた。揺れが収まって、誰もいない展示室で冷静になって、以前自殺したいとか思ったこと振り返って、これからは命大事にしようと思った。よく考えると、一日早く仙台に向かっていたら、福島当たりでもっと困ったことになっていたかもしれなかったし、津波で本当に死んでいたかもしれなかった。

教訓1:

自分の居場所を誰にも伝えないと非常時に面倒になる

揺れは収まった。大地震が起こったことはわかった。しかし、その他の情報が全くなく困った。交通機関の運行もわからず、身動きが取れなかった。ひとまず、美術館の中で待機することができた。しかし、待てども待てども状況がつかめず、日が落ちた頃にいらだちから美術館を出てしまった。後日になって当日の行動を振り返ると、結局途方に暮れることになるのだから、そのまま美術館に待機するべきだった。

リサとガスパールのガスパール

新美術館であおむけになったガスパール。

教訓2:

地震が起きたら安全な場所に待機して、交通機関の運行状況や宿泊場所の確保に留意した方がいい。情報収集が肝心だが、信用できる情報は少ない。

ホテルはどこも満室

美術館を出ると、近辺で知っている唯一のホテル六本木のホテルアイビスに行った。フロントのある階までエレベーターで行ってみるも満室。しょうがなく、渋谷まで歩くことにした。渋谷に近づくにつれ人がどんどん多くなっていった。渋谷はさらに混乱の様相だった。混乱しているというのは人が多かっただけで、どこかお祭り騒ぎとは言わないまでも、危機感を感じられなかった。多分、平和ボケというのはこういうことを指す言葉なのだと思う。もちろん、警察が、国が、誰かが何とかしてくれるだろうという安心感は日本が誇るべきことだとも思う。ハチ公付近の大勢の人だけでなく、車はどこも渋滞していて、バス停の行列もひどかった。ハチ公口前の交番には人があふれかえり、警察官に何かを尋ねる人が多かった。六本木より状況が悪化したので、新宿を目指した。

新宿は人が棄てた街と化していた

10時ごろに新宿に着いた。何度か行ったことのあるネットカフェもかなり待ち時間がひどかったので、すぐにあきらめて外に出た。歌舞伎町のホテルには満室と書かれた紙が貼ってあるところもあった。いつもなら大勢の人が行きかうJR新宿駅東口の周りにはちらほらとしか人がいなかった。これぞリアル北斗の拳、この世の終わりの風景だと思った。人が棄てた街の風景だった。その時、アルタのスクリーンを見ると、見たこともない津波が福島・宮城の街を飲み込む映像を見てはじめて事態を把握した。当時はまだ原子力発電所の危機は知らなかった。冬の夜を過ごす場所もないので、周りの人と同じように、JR新宿駅西口と京王線の当たりの通路の階段で座って途方にくれていた。皆店のパンフレットをブルーシート替わりにして座っていた。その夜は歩き疲れていたのに、ずっと寒くて一睡もできなかった。早朝に小田急や、地下鉄などが運行しだした。とりあえず旅行を中断して大阪に戻ろうと思ったが、JRが停まっているから、新幹線が動いていないはず。とりあえず、どこかで休みたいと思い、小田急線で町田を目指して電車に乗った。

友人が休める場所を探してくれた

徹夜の後に満員電車に乗ると、睡魔で倒れそうだった。途中の駅で休憩しながら移動した。町田に行った目的は休憩して、新幹線が運転再開したら、新横浜から乗ろうと思っていたからだ。

携帯の電池が残り少なくなっていたので、ネットでネットカフェを調べられるかわからない。そんな困っている時に、福岡の友人が親身になってネットカフェの場所、町田駅からの行き方を調べて教えてくれた。おかげで初めて来た町田でスムーズにネットカフェに着いた。水がなくシャワーは使えなかったが、やっと暖かい場所でくつろげた。その後は、新横浜方面へのJRに乗ってみた風景以外何も覚えていないが新幹線に乗って大阪に戻った。

大阪に戻ると新大阪駅では

あの日は九州新幹線開通の日だった。新大阪の電光掲示板に見慣れない鹿児島中央行きの「さくら」が表示されていた。その時、地震の影響の少ない大阪に脱出できて「おれまだ生きてる。これからも生きていられる。良かった。」とほっとすると同時に、地震の恐怖を身を持って感じていないだろう人だらけの街に来て、全くの別世界に来たような、「今、おれはどこにいるんだ?今いるおれがここにいるのは夢か?」という不思議な感覚に襲われた。

その後大阪で数日を過ごし、福岡に帰っても、不思議な感覚がずっと付きまとっていた。西日本では地震の影響がかなり小さかったからだ。自分ではあんなに大変な思いをしたのに、西日本では宮城・福島に同情するだけだった。大阪から福岡に来ると、影響がさらに小さくなったように感じた。

もし地震が東京から遠いところで起こっていたら

東日本大震災の影響が東京から離れるにつれ小さく感じる。ということは、もし大震災が東京から遠かったら全国向けの放送でも地震を取り扱う番組はずっと少なかっただろうし、全国各地の人々の関心も多少小さかっただろう。